論語 朝に道を聞く、夕に死す、可なり

安岡正篤の名言です。久しぶりに安岡正篤が四書五経から引用して話をされているのを読ませていただきました。

論語からの引用です。

勇気を持つ 夕に死す、可なり

安岡正篤は論語を非常に気に入っていたようですね。おそらく安岡正篤は論語を数百回読んでいるのではないでしょうか。もし論語を読んだ回数が私の想像以下でしたら、すべてを覚えていたのではないでしょうか。

そんな安岡正篤が尊敬してやまなかった孔子の論語から「朝に道を聞く、夕に死す、可なり」を引用されていました。

しかし、「朝に道を聞く」ことができれば「夕に死す、可なり」とは本当に覚悟の必要な言葉ではないでしょかね。

安岡正篤は決して単なる形容詞ではなく、本当のことだと書いています。人生にとって最も大切なことを知れが、いつ死んでも構わないという心境に至る方法とはどのようなものだったのでしょうね。

孔子の生涯は決して恵まれたものではなかったはずです。いわゆる出世や名誉というものとはほとんど無縁だったと言っても過言ではないでしょうね。そんな孔子が人生をかけて求めた「道」とは何だったのかを知りたいですね。

恐らく安岡正篤には孔子が求めていた「道」がどのようなものであるか知っていたのでしょう。

安岡正篤は続けて、身体にこたえるし明日が大変だと思いつつも、やってしまうだけの勇気をもつことだと書いてありました。

「道」を知るためには、勇気が必要だとは今までに考えたことはありませんでしたね。

悠仁さまご誕生!皇室男子の教育の変遷

悠仁さまご誕生!皇室男子の教育の変遷
皇室において41年ぶりに男のお子様、悠仁さまがご誕生されましたが、どのような教育をお受けになるのでしょうか。現在の皇室典範では皇位継承順位第3位でいらっしゃるため、帝王学も学ばれることでしょう。


幼い間は、眞子さま、佳子さま同様に、秋篠宮さまと紀子さまが、皇族の一員であることを心がけるようお育てになり、天皇皇后両陛下や皇太子さまご一家とご一緒する機会を多くもたれることで自然に帝王学は学んでいかれることと思います。

そして、いずれは、皇位継承順位第3位という重責を担われるのにふさわしくご成長されることを意識し秋篠宮さまも紀子さま、関係者も努力されるのではないかと思います。

ここで、天皇陛下の時代から皇室男子の教育を振り返ってみたいと思います。


天皇陛下のご幼少期から青年期〜孤独な日々を
1933年にお生まれになった天皇陛下は、宮中のしきたりにより、わずか3歳でご両親の元から離され育てられました。女官がいると軟弱になるということから、東宮仮御所で東宮傅育官(ふいくかん)によって育てられ、周りは大人の男性ばかりでした。

しかも、弟宮の義宮さまとも別々に育てられ、時々義宮さまがお兄様(今の天皇陛下)のいらっしゃる東宮御所に遊びにいらして、土日にお泊りになることもあったそうです。

戦後、慶応義塾の塾長だった小泉信三氏やアメリカの著名な児童文学者ヴァイニング夫人が天皇陛下の教育担当に就きましたが、彼女の言葉に印象的なものがあります。

「殿下はあまりにも退屈な束縛された生活を送っておいでになるとわたしは思った。尚悲しいことには、殿下はより大きな自由への欲求をも感じてさえおられないご様子なのであった。」

天皇陛下は、孤独の人と言われていらっしゃったのです。


天皇陛下のお辛いご経験から我が子は一つ屋根の下に

天皇陛下はご自分の子どもたちには辛い思いはさせたくないというお考えから・・・
秋篠宮さまは1965年、お生まれになり、お兄様の皇太子さまとご一緒にご両親のもとで、お育ちになりました。

1984年結婚25周年の会見で天皇陛下は、お子様の教育について、「基本的に私の育った経験から良かったと思うものを取り入れ、そうでなかったものを改めてということになると思います。

私の育ったときと違いますのは親兄弟が一緒に住んだこと、また、教育を学校に任せたことかと思います。」とおっしゃっていますが、親元を離れ、ご兄弟も離れて過ごされたことで、次のようなお辛い経験もされました。

弟宮さまが天皇陛下のおられる東宮御所に遊びに来られて、兄弟げんかをされた時、東宮侍従は「義宮さまの教育係のしつけが悪いからだ」と言い、逆に義宮さまのご教育係は、「東宮侍従のしつけが悪いからだ」と言い争いになり、天皇陛下はご兄弟でたいへん悲しい思いをされたのです。

天皇陛下は、ご自分のお辛い経験からご自分の子どもとたちとは一つ屋根の下で暮らすことを切望され、侍従もおひとりの方に、ふたりの子ども両方をみてくれとおっしゃったそうです。

足るを知る

足ることを知れば辱められない
日本人から見ると、中国人はどことなくのんびりした顔をしているように見える。農村ではもちろん、大都会でも、かれらはそれぞれの人生に「自足」しているかのように思われる。しかし、これが忠僕人すべてだと即断してはならない。中国人には、もうひとつの顔−−−きびしい競争社会を生きている顔があるのだ。

むかしから中国では、高級役人になることが出世の近道であった。役人になれば、地位もできるし、金もできる。しかし、役人になるためには「科挙」という難しい試験に受からなければならない。

「科挙」は、犯罪者など若干の例外はあったものの、ほとんどすべての人に開放されていた。それだけに競争率は高く、合格するためには、今でいえば幼稚園のころから受験勉強を始めなければならなかった。

「科挙」は昔のことだと思うかもしれないが、必ずしもそうではない。最近、中国はまたもや様変わりして試験制度が復活し、受験地獄の現象が起こっているという。

かりに競争場裏で敗れ去ることがあったとしても、もうひとつの精神生活を切り開くことができる。それを言葉で表せば「自足」する顔である。

いずれにせよ、価値観の一元的な社会は息苦しく、人の心にも余裕がない。日本人が実態以上にセカセカしてみえるのは、そんなところにも原因があるのではないでしょうか。

年金

社保庁からどんどんウミがでていますね。
これらはまだ氷山の一角だと思っている国民が多いのではないでしょうか。
これだけ汚職にまみれた時代はあったのだろうか。

社保庁OBら6人を処分 年金流用の裏金問題

厚生年金と国民年金の積立金を市場運用する「年金積立金管理運用独立行政法人」は3日、前身の旧特殊法人「年金資金運用基金」の幹部が私的団体を設立し収益の一部を飲食代に充てていた裏金問題で、幹部職員4人と役員2人を処分した。
 4職員の処分は信用を失墜させたことなどが理由で、管理部長(58)=社会保険庁OB=を停職1カ月、室長(58)を減給10分の1(1カ月)、課長(55)を訓告、課長相当職(59)を注意とした。川瀬隆弘理事長(65)と十菱龍理事(53)は監督不十分としていずれも訓告。管理部長は3日付で退職した。

 問題の団体は「年金福祉研究会」(昨年3月解散)で、年平均600万〜700万円が職員らの飲食代に充てられ、解散後も約200万円が流用された。先の国会で民主党が追及していた。

倒産

安岡正篤が今の倒産状況を見れば、何と言ったでしょうか。
ぜひ安岡正篤に聞いてみたいものですね。

上半期企業倒産7000件超 負債は5年連続減

民間調査機関の東京商工リサーチが11日発表した今年上半期(1〜6月)の倒産状況(負債1000万円以上)によると、全国の企業倒産件数は前年同期比6・4%増の7056件と倒産は2年連続増加し、上半期では3年ぶりに7000件を上回った。これに対して、負債総額は9・3%減の2兆6519億円と5年連続減少し、平成3年以降で最小金額となった。

 負債1億円未満の中小・零細企業の倒産が4・8%増の4561件と全体の倒産件数を押し上げる要因となったが、負債100億円以上の大型倒産が33・3%減の32件にとどまったため、負債総額は減少傾向が続いている。景気回復を背景に、大手企業の業績改善が進む中で、中小・零細企業との格差が拡大している現状が改めて浮き彫りとなった格好だ。

 同社は「原材料の高騰や都心部を中心とした人件費の上昇は小規模企業ほど収益圧迫要因となっている。今後予想される金利上昇も倒産に影響を及ぼすだろう」と分析している。

 産業別の倒産件数でみると、10業種のうち金融・保険業、不動産業、運輸業を除く7業種で前年同期を上回り、情報通信業が16・2%増、サービス業などが14・5%増。地域別の件数では、9地域のうち中国以外の8地域が前年同期比増で、北海道が15・7%増、四国が12・8%増だった。

論語

安岡正篤の根幹をなすものははやり「論語」ではなかったでしょうか。

これから数回にわったって「論語」のお話をさせていただきます。第一回は孔子について少しお話します。

孔子(こうし、紀元前551年‐紀元前479年)は春秋時代の中国の思想家。「儒」と呼ばれるシャーマン的な職種における様々な知識・伝統を体系化し儒教を大成させた。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。

紀元前551年に、魯国昌平郷辺境の陬邑(昌平とは太平を盛んにするという意。邑は村の意)、現在の山東省曲阜(きよくふ)市で下級武士の次男として生まれたとされる。卑賎階級の巫女の子として生まれたとの異説もある。孔子自身は「貧しくて賎」と語っている(『論語』)。父は叔梁紇、母は顔徴在とされるが、『論語』の中には記述がない。

幼くして両親を失い、孤児として育ちながらも苦学して礼学を修めたとされる。しかし、どのようにして礼学を学んだのかは一切分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖・周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せている。また、老子に師事して教えを受けたという説もあるが、これは孔子の礼学に正当性を与えたい後の儒家と、孔子の名声を利用したい道家の思惑が一致したことによる捏造である可能性が指摘されている。

身長は9尺6寸、1尺を19.6cmとすれば188cmの長身で、世に「長人」と呼ばれたという(『史記』孔子世家)。52歳のとき魯の定公によって中都の宰に取り立てられたと『史記』孔子世家は伝えるている。さらに、その翌年に大司寇に就任したとされる。また、政変によって魯の実権を握った陽虎に誘われ、これに応じようとしたことがある(『論語』陽貨第十七)。紀元前497年に失望して弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。しかし孔子を受け容れる国は無く、紀元前483年69歳のとき魯に帰国した。その後、弟子の育成に専念し、紀元前479年に73歳で没した。

孔子の人生の大部分は無冠の一学者に過ぎなかったが、漢代、司馬遷はその功績を王に値すると評価して『史記』の中に「孔子世家」(世家は諸侯王家の歴史)を、またその弟子たちの伝記として「仲尼弟子列伝」を立てた。儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。



失意泰然

安岡正篤が愛していた言葉に六然(りくぜん)があります。

「六然」

1.自処超然(自ら処すること超然)
  自分自信に関してはいっこう物にとらわれないようにする。

2.処人藹然(人に処することあい然)
  人に接して相手を楽しませ心地良くさせる。

3.有事斬然(有事には斬然(ザンゼン))
  事があるときはぐずぐすしないで活発にやる。

4.無事澄然(無事には澄然(チョウゼン))
  事なきときは水のように澄んだ気でおる。

5.得意澹然(得意にはたん然)
  得意なときは淡々とあっさりしておる。

6.失意泰然(失意には泰然)
  失意のときは泰然自若としておる。

私には全て実行出来ないような内容ですが、六然(りくぜん)
ブログのタイトルを変えるにあたり、参照した掛軸が勝海舟の六然から来ていると、前回のエントリーで書いたが、ブログスフィアを当たらせてもらったところ、幾つかのエントリーが見つかった。

その中で、比較的最近のエントリーから転載させて頂いた。


六然

1.自処超然(自ら処すること超然)
  自分自信に関してはいっこう物にとらわれないようにする。

2.処人藹然(人に処することあい然)
  人に接して相手を楽しませ心地良くさせる。

3.有事斬然(有事には斬然(ザンゼン))
  事があるときはぐずぐすしないで活発にやる。

4.無事澄然(無事には澄然(チョウゼン))
  事なきときは水のように澄んだ気でおる。

5.得意澹然(得意にはたん然)
  得意なときは淡々とあっさりしておる。

6.失意泰然(失意には泰然)
  失意のときは泰然自若としておる。

私には全て実行出来ないような内容ですが、「失意泰然」だけは何とか出来るようになろうと座右の銘にしています。

老子

安岡正篤陽明学の大家のように言われてもいますが、私には老荘思想を愛していたような気がしてなりません。

特に老子を大切に扱っていたようです。老子とは。

老子(ろうし、紀元前5世紀頃)は、中国の春秋時代の思想家。姓は李。名は耳とされ、唐の皇帝から宗室の祖と仰がれた。『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されることもある。

『史記』「老子韓非列伝」によると、老子は楚の国の生まれで、姓は李、名は耳、字は聃(タン、伯陽とする説もある)といった。孔子が礼について教えを乞うたことがあったが老子は戒めて「古代の賢人は空言のみ残って骨は朽ちている。君子など時流に乗れなければあちこち転々とするだけだ。そなたの驕気と多欲、もったいぶった様子とかたよった思考を取り去りなさい」と教えたという。孔子はその感想を「鳥や獣や魚など、様々な動物はそれぞれ捕らえる方法がある。しかし竜だけは風雲に乗じて天に昇ってしまうため捕らえようがない。老子もまた竜のような人物だといえようか。」と弟子に語った。

老子は周の王室の書庫の記録官だったが、後年周の衰えを見て立ち去った。このとき老子が通過した関所で、関守の尹喜の頼みを受けて書き残したのが『老子』上下巻5000余字であるという。上下巻の最初の一字「道」と「徳」を取って『道徳経』または『老子道徳経』とも呼ばれる。

また、『史記』では老莱子、太史儋という二人の人物も老子ではないかと記されている。

老子の思想は神秘主義から処世訓まで多岐にわたるが、その原理は万物の根本である道によって表される。 道とは全ての存在を規定する原理であると同時にそれら全てを生み出した母なる存在でもある。道はあまりに広大で漠然としているので定義や解釈を超えているが、人為を廃し自然であることが道に通ずるとされる。このような態度を無為自然といい、老子はこれを処世から統治まで全てに適用すべきだと考えた。(但し、『老子』の本文には無為はあっても無為自然なる語は登場しない。)

『老子』は逆説を多用し、非体系的で随所に矛盾や飛躍が見られるため難解な部分も少なくないが、その深遠な思想は現代に至るまで影響を保ち続けている。

老子が西方(インド)の地で釈迦となり仏教を興したという説(化胡説)は道教が他説に対する優位を主張するための創作と考えられる。しかし仏教の「空」と道家思想の「道」には類似点があるため仏典が漢訳される時道家思想の用語が訳語にあてられたり、道教の教団化にあたって仏教の教団組織が参考されたりするなど、仏教と道家思想は互いに影響しあっている。

老子の思想が道教に発展すると、老子は道教の祖として崇められるようになり、神格化されて唐のころに道教の最高神である三清の一柱、太上老君となった。『史記』に伝えられた老子の姓が李であることから、唐朝帝室の李氏は祖先を老子に求めたので、老子は聖祖大道玄元皇帝とおくり名され、ますます尊崇を受けた。

陽明学

安岡正篤陽明学者とも言われていますが、陽明学について詳しくお話しましょう。

陽明学(ようめいがく)とは、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は明治日本以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、(宋明)理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学ともいう。英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類される。

王陽明の思想は『伝習録』、『朱子晩年定論』、『大学問』にうかがうことができる。そしてその学問思想の特徴は以下のことばに凝縮されている。

1. 心即理 ― 陽明学の倫理学的側面を表すことば。「心即理」は陸象山が朱子の「性即理」の反措定として唱えた概念で、王陽明はそれを継承した。朱子学のテーゼ「性即理」では、心を「性」と「情」に分別する。「性」とは天から賦与された純粋な善性を、他方「情」とは感情としてあらわれる心の動きを指し、「情」の極端なものが人欲といわれる。そして朱子は前者のみが「理」に当たるとした。また「理」とは人に内在する理(=性)であると同時に、外在する事事物物の「理」でもあるとされる。つまり「理」の遍在性・内外貫通性が朱子学の特徴であった。

しかし王陽明は「理あに吾が心に外ならんや」と述べるように、「性」・「情」をあわせた心そのものが「理」に他ならないという立場をとる。この解釈では心の内にある「性」(=理)を完成させるために、外的な事物の理を参照する必要は無いことになる。この考えはやがて外的権威である経書、ひいては現実政治における権威の軽視にまでいたる危険性をはらんでいた。なお王陽明の「心即理」は基本的に陸象山のそれをトレースしたものであるが、陸が心に天理・人欲という区別を立てなかったのに対し、王陽明は朱子と同様「天理を存し人欲を去る」という倫理実践原理を持っていた点は異なる。

2. 致良知 ― 陽明学の方法論的側面を表すことば。「致良知」の「良知」とは『孟子』の「良知良能」に由来することばで、「格物致知」の「知」を指すが、「致良知」はそれを元に王陽明が独自に提唱した概念である。まず「良知」とは貴賤にかかわらず万人が心の内にもつ先天的な道徳知(「良知良能は、愚夫愚婦も聖人と同じ」)であり、また人間の生命力の根元でもある。天理や性が天から賦与されたものであることを想起させる言葉であるのに対し、「良知」は人が生来もつものというニュアンスが強い。また陽明学において非常に動的なものとして扱われる。

そして「致良知」とはこの「良知」を全面的に発揮することを意味し、「良知」に従う限りその行動は善なるものとされる。逆に言えばそれは「良知」に基づく行動は外的な規範に束縛されず、これを「無善無悪」という。

師友会

安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年(明治31年)2月13日-1983年(昭和58年)12月13日)は、日本の陽明学者・東洋思想家。

経歴
現在の大阪市中央区生まれ。1922年(大正11年)に東京帝国大学の卒業記念として執筆され出版された『王陽明研究』が反響を呼ぶ。文部省に入省するも半年で辞し、「東洋思想研究所」・「金鶏学院」・「日本農士学校」などを次々と創設、東洋思想家・東洋古典研究家として軍部や革新官僚、華族などに影響を与え、その名を馳せた。北一輝・大川周明の猶存社のメンバーでもあった。年上である八代六郎(元海軍大将)、山本五十六、更には蒋介石などとも親交があり、二・二六事件の首謀者西田税らに影響を与えた一人とも言われる。また戦時中には大東亜省顧問として外交政策などに関わったとされる。

敗戦後、安岡が創設した各団体や学校はGHQにより解散を命じられ財産は没収、安岡自身も政府中枢にあった事を理由に公職追放される。その後は「師友会」(後の全国師友協会)を結成、機関紙『師と友』の発行や全国各地を巡っての講演、更にはラジオによる講話などを通じた東洋古典思想の普及活動に転じた。一方で政財界とのパイプは保ち続け、自民党政治の中で東洋宰相学、帝王学に立脚し元に常に政治家たちの「精神的指導者」「陰の御意見番」の位置にあったとされる。

安岡自身は政治の表舞台に出ることを好まず、その生涯の多くは東洋古典の研究と人材育成に捧げられた。安岡を師と仰ぐ者は多くの政治家や財界人をはじめとして今なお数知れない。

「全国師友協会」は遺言もあって解散したが、各地域の支部がそれぞれ独立した団体として活動を続け、その思想を継承している。埼玉県嵐山町に財団法人郷学研修所・安岡正篤記念館があり、安岡教学のメッカと目され一般に公開されている。

主な事績等
戦前にあっては血盟団事件に「金鶏学院」の関係者が多く連座したため安岡も一時関与を疑われた。また安岡が、五・一五事件や二・二六事件の首謀者の一員とされる大川周明や北一輝と東京帝国大学時代に親交があったことからこれらの事件への関与を指摘する向きもあるが、安岡自身はこのことについて何も語っておらず、現在ではこれらへの関与を否定する見方が一般的である。一方で特に海軍関係者との親交や大東亜省顧問としての活動が挙げられるが、具体的に何に何処まで関与したかはほとんで明らかにされていない。

戦後にあっては、自民党政治の中で東洋宰相学、帝王学に立脚し、実践的人物学、活きた人間学を元に多くの政治家や財界人の精神的指導者や御意見番の位置にあった。やはりその活動には謎の部分が多いが、安岡を師と仰いだとして知られる政治家には吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳などが挙げられる。

昭和20年8月15日の終戦の詔書(玉音放送)の草案に対して、加筆したとされる。
歴代首相に施政方針演説の推敲を依頼されていたと言われる。
池田勇人の派閥研究会「宏池会」の命名者である。
佐藤栄作の首相就任前の訪米時に応対辞令の極意を授け、このときのケネディ大統領との会談がケネディに沖縄返還交渉開始を決断させたと言われる。
新元号「平成」の名を考案したとされる。


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