論語

安岡正篤の根幹をなすものははやり「論語」ではなかったでしょうか。

これから数回にわったって「論語」のお話をさせていただきます。第一回は孔子について少しお話します。

孔子(こうし、紀元前551年‐紀元前479年)は春秋時代の中国の思想家。「儒」と呼ばれるシャーマン的な職種における様々な知識・伝統を体系化し儒教を大成させた。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。

紀元前551年に、魯国昌平郷辺境の陬邑(昌平とは太平を盛んにするという意。邑は村の意)、現在の山東省曲阜(きよくふ)市で下級武士の次男として生まれたとされる。卑賎階級の巫女の子として生まれたとの異説もある。孔子自身は「貧しくて賎」と語っている(『論語』)。父は叔梁紇、母は顔徴在とされるが、『論語』の中には記述がない。

幼くして両親を失い、孤児として育ちながらも苦学して礼学を修めたとされる。しかし、どのようにして礼学を学んだのかは一切分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖・周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せている。また、老子に師事して教えを受けたという説もあるが、これは孔子の礼学に正当性を与えたい後の儒家と、孔子の名声を利用したい道家の思惑が一致したことによる捏造である可能性が指摘されている。

身長は9尺6寸、1尺を19.6cmとすれば188cmの長身で、世に「長人」と呼ばれたという(『史記』孔子世家)。52歳のとき魯の定公によって中都の宰に取り立てられたと『史記』孔子世家は伝えるている。さらに、その翌年に大司寇に就任したとされる。また、政変によって魯の実権を握った陽虎に誘われ、これに応じようとしたことがある(『論語』陽貨第十七)。紀元前497年に失望して弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。しかし孔子を受け容れる国は無く、紀元前483年69歳のとき魯に帰国した。その後、弟子の育成に専念し、紀元前479年に73歳で没した。

孔子の人生の大部分は無冠の一学者に過ぎなかったが、漢代、司馬遷はその功績を王に値すると評価して『史記』の中に「孔子世家」(世家は諸侯王家の歴史)を、またその弟子たちの伝記として「仲尼弟子列伝」を立てた。儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。




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