師友会

安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年(明治31年)2月13日-1983年(昭和58年)12月13日)は、日本の陽明学者・東洋思想家。

経歴
現在の大阪市中央区生まれ。1922年(大正11年)に東京帝国大学の卒業記念として執筆され出版された『王陽明研究』が反響を呼ぶ。文部省に入省するも半年で辞し、「東洋思想研究所」・「金鶏学院」・「日本農士学校」などを次々と創設、東洋思想家・東洋古典研究家として軍部や革新官僚、華族などに影響を与え、その名を馳せた。北一輝・大川周明の猶存社のメンバーでもあった。年上である八代六郎(元海軍大将)、山本五十六、更には蒋介石などとも親交があり、二・二六事件の首謀者西田税らに影響を与えた一人とも言われる。また戦時中には大東亜省顧問として外交政策などに関わったとされる。

敗戦後、安岡が創設した各団体や学校はGHQにより解散を命じられ財産は没収、安岡自身も政府中枢にあった事を理由に公職追放される。その後は「師友会」(後の全国師友協会)を結成、機関紙『師と友』の発行や全国各地を巡っての講演、更にはラジオによる講話などを通じた東洋古典思想の普及活動に転じた。一方で政財界とのパイプは保ち続け、自民党政治の中で東洋宰相学、帝王学に立脚し元に常に政治家たちの「精神的指導者」「陰の御意見番」の位置にあったとされる。

安岡自身は政治の表舞台に出ることを好まず、その生涯の多くは東洋古典の研究と人材育成に捧げられた。安岡を師と仰ぐ者は多くの政治家や財界人をはじめとして今なお数知れない。

「全国師友協会」は遺言もあって解散したが、各地域の支部がそれぞれ独立した団体として活動を続け、その思想を継承している。埼玉県嵐山町に財団法人郷学研修所・安岡正篤記念館があり、安岡教学のメッカと目され一般に公開されている。

主な事績等
戦前にあっては血盟団事件に「金鶏学院」の関係者が多く連座したため安岡も一時関与を疑われた。また安岡が、五・一五事件や二・二六事件の首謀者の一員とされる大川周明や北一輝と東京帝国大学時代に親交があったことからこれらの事件への関与を指摘する向きもあるが、安岡自身はこのことについて何も語っておらず、現在ではこれらへの関与を否定する見方が一般的である。一方で特に海軍関係者との親交や大東亜省顧問としての活動が挙げられるが、具体的に何に何処まで関与したかはほとんで明らかにされていない。

戦後にあっては、自民党政治の中で東洋宰相学、帝王学に立脚し、実践的人物学、活きた人間学を元に多くの政治家や財界人の精神的指導者や御意見番の位置にあった。やはりその活動には謎の部分が多いが、安岡を師と仰いだとして知られる政治家には吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳などが挙げられる。

昭和20年8月15日の終戦の詔書(玉音放送)の草案に対して、加筆したとされる。
歴代首相に施政方針演説の推敲を依頼されていたと言われる。
池田勇人の派閥研究会「宏池会」の命名者である。
佐藤栄作の首相就任前の訪米時に応対辞令の極意を授け、このときのケネディ大統領との会談がケネディに沖縄返還交渉開始を決断させたと言われる。
新元号「平成」の名を考案したとされる。


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